【やが君】5・6巻感想追記―怖いものNつ―
追記というテイですが、普通に『やが君』全体にぶっつけた記事。
現在、職業不定の暇にかまけて繰り返し読み込んでいますが、出るわ出るわワラワラと、腑に落ちないところ、引っかかるところ、疑問点........恐ろしや。
※上記記事(本記)に連なる論旨は、目次の3番目です。
※以下、ネタバレ注意※
大きな見落とし
その中に個人的に重要な見落としが、いや、問題の再認識か…いずれにせよ重要なポイントです。
『やが君沼』深度測定に特大の誤差が発見されたことを此処に報告します。
それは、
解釈自由度の大きい『やが君』という物語の中に
解釈自由度の大きい『君しか知らない』(以下、「生徒会劇」)という物語が 埋め込まれている
ということ。
この整然としたカオス具合からどうやら僕は目をそむけていた。
これもう素人の俺なんかの手に負えるもんじゃなくね?がしかし、底の有無に関わらずこの沼に最期まで沈み込む覚悟。
劇-劇中劇間の主従関係はあるのか?
劇中劇(生徒会劇)と「劇」にあたる『やが君』のリンクについては散々触れられています。その中で一つ、焦点となってくるのが、侑による生徒会劇の結末の書き換え、そして『やが君』自体の筋書きがなぞるのは書き換え前のものか、書き換え後のものか、あるいはそれ以外のものか?という問題。これは本記で触れた「演じる」のレイヤー問題にも深くかかわる、というかそのものというか、なんというか…(消え入る声)
(6巻で侑の望んだ結末を「演じきった」燈子。その後、あの悲劇が訪れるわけですが、ここでは僕はまだ「劇の劇中劇からの逸脱」を断定しません。詳しくは後述)
キャラ達が自覚的に「演じる」ことで立ち上がる生徒会劇。そしていかんともしがたい、キャラたちにとっての「現実」=『やが君』。もうこれはミザナビームなんて単純なものじゃない。
ここでひとまず問題にブチ上げたいのは、
『やが君』と生徒会劇のリンクの強度 です。
この2つの物語、あらゆる面で大きく異なりますが、一方の解釈次第では他方の解釈が揺らいでしまいます。一見、「物語としての権威」は、侑の、こよみの干渉を寄せ付けない、そして作者仲谷先生の綴る『やが君』に分がありそうですが、キャラ達による生徒会劇の解釈が、僕(読者/観客)の『やが君』解釈に影響しかねないのです。
リンクをナシとして考える事は到底出来そうもありません。
しかしリンクの強度そのものが『やが君』解釈に織り込まれ、そのリンクも解釈次第で変わっていく……マジ無理。。。
燈子「終わったけど、終わらなかった」ものとは?(6巻)
ここまで、そっくりそのまま僕のグチャグチャの脳内をお届けして参りました。
でも問題提起に終始したままこの記事を終わらせとうない。
本記の方の、上記の疑問に再挑戦します。(書きながら。)
まず、このセリフの難解さが何によるのか、それを確かにしないと。
1.まず主語が共通であると仮定すると、矛盾していること。
2.主語がそれぞれ異なると仮定すると、複数の組み合わせが考えられること。
3.あくまで燈子の主観から発せられたものであること。読者の視点を排除しないといけないこと。
3. は厄介に見えますが、強力な手がかりとなりえます....
...............マジごめんなさい。ここまで書いてる途中でまたいくつかの謎と発見を発見しました。(日本語崩壊) ちょっと考えただけで答えが出るような問いじゃなかった。
沼が迷宮になっていることに今気づいたんだ。
でもどうですか、ライヴ感ありませんかこのブログ。この筆者、書いてる途中に息絶えてダグアウトに下がりますよきっとこれからも何度でも。
結局、やが君マジやべーってはしゃぐだけの記事になっちまいました。
では今回はこの辺で。