『やが君』深読み書店

脳から産地直送・乱筆乱文 『やが君』の考察を中心に。

【やが君】続・続・選択問題−三択問題篇③−

ごきげんよう。勝ち猫です。

前前前前回からの続き、今回で決着付けます。投げっぱなしジャーマンはマズい。 

今回からまた一段、論が飛躍します。あくまで個猫的な解釈の一つです。

 

suiseinoaho.hateblo.jp

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※ネタバレ注意※

 

ここでいう「じゃんけん」

いまさら感満載だが、ここで筆者のいう「じゃんけん」とは厳密にいえばじゃんけんそのものではなく、じゃんけんの性質の一部でしかない。

それは、

  1. プレイヤーが2人のときと3人以上のときで あいこ のあり方が大きく変わる
  2. あいこ はじゃんけんの「続行」を意味する
  3. 出された手が2種類のみとなるとじゃんけんは「終了」
  4. ただし、出す手はここでは3種類には限定しない
  5. ただし、個々のプレイヤーの勝敗は決めない。強いて言えば、あいこ/続行はプレイヤー全員に利をもたらす。

というものだ。一貫して、ここでは「あいこ」はポジティブなもの、そしてじゃんけんの「終了」はネガティブなものとして話を進める。

なぜ「あいこ」を善とするのか?

理由は2つある。一つ目は、作中で唯一はっきりと登場する、燈子と澪によるじゃんけんだ。このじゃんけんでは勝敗がつき、それが澪の死につながる(...というのはあくまで燈子の解釈だが。少なくとも夢の描写から、燈子はじゃんけんと姉の死という二つの事象をそういうネガティブな文脈で繋げている。)    じゃあ、あいこだったらこんなことにならなかったのかよ?と言われると答えに窮するが、とにかく、ここではじゃんけんの終了は「悪」で、逆にあいこは「善」だ。

二つ目は、生徒会劇だ。「仮面の下の私」のよすがとなるスマホのパスワード。それは、3人の見舞客に所縁のある数字の総和だった。これは「仮面の下の私」が3人を平等に大切にしていた、という解釈でいいだろうか。すると、バラバラの「3つの私」にも優劣はない。これを筆者は3人での「あいこ」に結びつけた。このあいこでは、出す手はそれぞれ大きく異なるにも関わらず、それぞれの手の間の優劣は無効となる。全く異なりながらも優劣がない。3つとも共存できる。このような意味合いで、「完全な不一致によるあいこ」は「善」だ。とする。

(2)

繰り返しになるけど、侑は後から一対一で燈子と関係していったわけではない。あくまで侑は三角関係の最後の頂点であり、またその三角関係の各辺はどの頂点を一つ欠いたとしても、結ばれない。侑-燈子を結ぶ真っ赤な糸は沙弥香なしにはありえない。この3人は、三角形の一辺としてしか互いに結びつくことができない。沙弥香あっての燈子だし、燈子あっての沙弥香で、侑あっての燈子なのだ。そしてついでに沙弥香は侑のポテトを摘む。

この項では侑が物語に登場する以前の、沙弥香-燈子に注目する。その詳細はスピンオフ小説・『佐伯沙弥香について』(以下『ささつ』)の続篇で描かれるんだろうが、今は『やが君』6巻までと既刊の『ささつ』を手掛かりとして考える。

 

じゃんけんの終了と続行

ここで考える「じゃんけん」について、勝敗はこの際どうでもいい。重要なのは「終了」と「続行」の二つの結果だけだ。

この状態は「2」にあたる。じゃんけんが可能な最小人数。2人の出す手が異なればじゃんけんは「終わり」、一致すればあいことなって「続行」。

ここで「あいこ=続行=終わらないこと」は燈子、沙弥香の両者にとって望ましい状態。

すんげー大雑把に言ってしまうと、〈このまま〉を志向しがちな二人にとっては「あいこ」が最良の状態なのだ。

 では何をもって「終了」となるかというと、燈子と沙弥香、互いの持つ「私しか知らない君」の不一致(じゃんけんで言えば異なる手が出たとき)による。そしてその原因となるのはこの二人の持つ「好き」の一致である。

燈子と沙弥香の「好き」の一致

燈子の世界観における「好き」とは一言で言うと「束縛」だ。幼い日の燈子は周囲からの「好き」の十字砲火により、その後の人生のレールを決定されてしまった。一概にそれが純粋に強制的なものだったとは言えないが。

『ささつ』によれば、沙弥香の持つ「好き」もこれと似たり寄ったりだ。千枝先輩に告白され、自らも恋に溺れて行くうちに、本心とは違う「千枝先輩の思う私」を身にまとっていく。結局この恋の顛末は、千枝先輩の残酷な「お遊び宣言」に終わった。皮肉なことに沙弥香が恋していたのも張りぼての「先輩」だった。ここで沙弥香は一種の「記憶喪失」を経験する。わずかに一年あるかないかの期間だったが、学業を疎かにするほど熱を上げた「演技」の唐突な終了の後、本来の自分を見失った。

こうして並べてみると、2人の現在の関係はとても自然なものだと感じる。「自分より一歩先を行く燈子」が好きな沙弥香。自分との位置関係でそのイメージが決まるのだから、それを維持するには自分が一歩下がるだけでいい。一方の燈子は、恋愛感情ではないものの、沙弥香には好意がある。めちゃくちゃ意地の悪い言い方をすると、沙弥香は「完璧な姉」を演じるために有用な標、そしてライバルとして機能している。沙弥香と競っていれば「なりたい私」でいられる。そして「燈子のなりたい燈子」は「沙弥香の望む燈子」とほぼ一致している。沙弥香は燈子に「完璧な私(燈子)」を要求する。

「沙弥香は踏み込まない、追い越さない」

 

(3)

ここで侑が登場/参戦。

プレイヤーが3人となったので、じゃんけんのあいこは「一致による均衡」「完全な不一致による均衡」が加わる。これが侑の登場による最大の効果だ。3人の不一致による均衡/「このまま」が許されるようになる。

 

侑の「好き」

困った。侑はまだ「好き」を持っていない。いや、正確には『「好き」を持ち始めたのか?』という問いも現時点のやが君の焦点となっているんだけど。とにかく、侑にとって「好き」はまだまだよう分からんもので、言語化できていない。

 今まさに侑は望んだはずの「好き」と暗闘してるわけだけど、その先に出た侑の「好き」が燈子と沙弥香の「好き」と一致するのか?というのが大問題。

一致したならばじゃんけんは続行。一致しなかったなら1対2でじゃんけんは終了する。

変化のための「このまま」

またどえらい乱暴な表現になってしまうけど、物語の序盤では燈子と沙弥香は〈このまま〉志向、そしてそこに〈変化〉志向の侑が登場した、と筆者は捉えている。

現状、この三角関係はルルーシュ・燈子・ブリタニア卿の「好き」によって統べられ「一致によるあいこ」を保っているように見える。(あのシーンの燈子マジでルル様だよね)そのあいこを成す3つの手は、おおむね燈子の思惑通りで、それは侑の入学前、燈沙時代のあいこを保つためにそうならざるを得なかったからだ。

しかしここで、侑について、「変化を望まなくなるという変化」というこれまた変なものが筆者の脳裏にチラついてきた。そうですよ。twitterで回ってきた。7巻の帯。

別にこれはまったくの新局面というわけではないけど。

侑はとにかく「変わりたい」。そのために燈子先輩のそばにいることを決めるのだが、その燈子こそが侑の望む変化の最大の障害なのだ。以下ループ。変わりたい→そばにいたい→変わったらそばにいられなくなる→....×∞。このジレンマこそが『やが君』を超絶しんどい物語にさせている主犯だ。

侑の「七海先輩のそばにいたい」は「このまま」/「あいこ」に対応する。ここで変わらないのは、あくまで3人の関係、距離感、「あいこ」だけだ。侑自身はやっぱり変わりたいし、七海先輩のことも変えたい。

そうなると、目指す「あいこ」の形は「完全な不一致によるあいこ」となってくる。

 

人格形成/変化の物語

そして、じゃんけんのルールに則れば、「あいこ」を維持し、かつ個々のどれかの手が変化するには、すべての手が変化しなければならない。

いや、もちろん例外もある。1人だけ出す手を変えずに、あいこを維持することは可能だ。しかしこの√はバッドエンドだと感じる。

結論として、3人とも、侑も燈子も沙弥香も変わらなければならない。「わたしだって変わるんです」なのだ。3人全員のそれぞれの変化こそが、『やがて君になる』というタイトルが示す変化で、それがこの物語の正体だと思う。

3人それぞれ想う人のそばにいるためには、「あいこ」でいるためには、全員変わらなくてはいけない。変えなくてはいけない。そうしないと、この三角形が、そしてそれを成す各辺の結びつきが消えてしまう。

そして3人とも変われたとき、それぞれの「私」にとっての「君」が現れ、『やがて君になる』。

 

 

...んじゃね?

 

雑感

今回はめちゃくちゃムズかった。自分で書いといてなんだけど、結構無理のある理屈だとは思う。今のところはこれが限界。でも一つ確かに言えるのは、『やがて君になる』は「変化」の物語だってこと。これだけは言える。〈このまま〉を望む先輩方も分かる。でもやっぱり変化を望む侑こそが、いや侑という「変化の塊」がこの物語の原動力だと思う。

それに、「現状維持」なんて言葉はうら若い乙女の皆様には似合わないし、みんな変わっていく方が......なんか..............青春っぽいじゃん?